Masuk夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。
白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。
窓の外では、雨がまだ降っている。
時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。
部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。
そのソファには、二人がいた。
黒崎俊哉と、相沢玲奈。
玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、
腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。
俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。
二人の距離は近すぎて、
見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きなんだよね」
玲奈が甘えた声で言う。
その声は、恋人だけに向ける柔らかさを含んでいた。
「昔の女優って、今より色気あるよな」
俊哉が、彼女の肩に顔を埋めながら答えた。
玲奈は小さく笑う。
「分かる。今って、綺麗なだけの人多いですよね」
「色気って、余裕なんだろうな」
そんな会話を交わしながら、二人は自然に触れ合っている。
以前、あの場所に座っていたのは自分だった。
映画を観ながら、俊哉の肩に寄りかかった夜もあった。
「お前といると落ち着く」
そう言われたことも、一度だけじゃない。
なのに。
今、その記憶はまるで別人の人生みたいだった。
私は、部屋の隅に立っていた。
洗濯物を畳み終え、行き場を失ったまま。
乾いたタオルを抱えたまま、ただ立ち尽くしている。
視界に入らないように、気配を消しているつもりだった。
空気みたいに。
存在を薄く、薄くしていれば、
少しは傷つかずに済む気がしたから。けれど――
「ひかる」
俊哉が、私を呼んだ。
肩がびくりと揺れる。
「飲み物、取ってこい。玲奈が喉乾いたって」
命令する声。
そこには、かつて恋人へ向けていた優しさは一切なかった。
玲奈が、ちらりと私を見る。
「あ、ごめんなさい。いるの、気づきませんでした。……影みたい」
その口調は丁寧なのに、目は笑っていなかった。
むしろ、楽しんでいるように見えた。
私が傷つく瞬間を。
キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開ける手が、少し震えていた。
グラスに氷を入れる音だけが妙に大きく響く。
背中に、二人の視線が突き刺さるのを感じる。
試されているようだった。
どこまで耐えられるのか。
どこまで壊れずにいられるのか。
私は静かに飲み物を運んだ。
戻ると、二人はさらに密着していた。
ひかるに見せつけるように、
映画よりも、お互いの体に夢中のようだった。玲奈は俊哉の耳元へ唇を寄せ、
わざと聞こえるように甘い声を出す。「ねえ、俊哉ぁ」
「ん?」
「こういう映画見てると……触れたくならない?」
「なるな」
俊哉は即答した。
その迷いのなさが、胸を刺す。
私の前だという意識は、欠片もない。
いや。
違う。
意識しているからこそ、見せつけているのだ。
玲奈が小さく笑う。
「……元カノさん、気にしないですよね?」
その言葉に、俊哉も笑った。
「もう、俊哉も、女として見てないでしょうし」
俊哉が鼻で笑う。
「当たり前だろ。こいつはもう、家の備品みたいなもんだ」
備品。
壊れても、文句を言えないもの。
必要なときだけ使われ、
邪魔なら隅へ追いやられるもの。胸の奥が、じわじわと痛んだ。
呼吸をするたびに、
鈍い痛みが広がっていく。でも、顔には出さなかった。
出したところで、喜ばせるだけだと、もう知っている。
泣けば、「面倒くさい」と笑われる。
怒れば、「ヒステリー」と呆れられる。
だから私は、何も言わない。
何も感じていないふりをする。
それしか、自分を守る方法がなかった。
「映画の邪魔だから」
俊哉が言う。
「奥、行ってろ」
私は黙って、うなずいた。
それだけだった。
昔なら、「そんな言い方しないで」くらいは言えたかもしれない。
でも今は、その言葉さえ喉から出てこない。
背を向けた瞬間。
ソファから、押し殺した笑い声と、衣擦れの音が聞こえた。
耳を塞ぎたくなる。
けれど、塞げない。
完全には消えない。
薄い壁一枚では、
二人の気配は簡単に染み込んでくる。私は物置部屋の前で立ち止まり、
ゆっくり壁にもたれた。冷たい。
まるで今の自分みたいだった。
目を閉じる。
――ここは、私の家だった。
カーテンを選んだ日。
家具を組み立てながら笑った夜。
狭いキッチンで一緒に料理した時間。
全部、本当にあったはずなのに。
――私は、この人の女だった。
その言葉を思い浮かべた瞬間、胸が締めつけられた。
もう、過去形でしか考えられなくなっている。
その事実に気づき、私は静かに唇を噛んだ。
このまま、
毎晩、こんな光景を見せつけられながら、
少しずつ心を削られていくのだろうか。
壊れるまで。
感情がなくなるまで。
いいえ。
胸の奥で、小さく、でも確かな声がした。
ここから、出る。
まだ方法はない。
まだ力もない。
頼れる人もいない。
それでも――
この夜、ひかるははっきりと悟った。
私はもう、
「耐える女」では終わらない。
朝の光が、静かに病室へ差し込んでいた。夜の冷たい空気を少しずつ押し退けるように、カーテンの隙間から淡い光が伸びている。ここ最近、ほとんど眠っていない優は、椅子に座ったまま目を閉じていた。眠っているというより、ほんの一瞬だけ意識を落としている。どうしても、ひかるのそばを離れることができない。離れたくない。昨夜、沙羅が残していった言葉が、頭から消えなかった。――白い車だったそうね。あれは偶然だったのか。それとも。考えれば考えるほど、眠気は遠ざかっていった。そのときだった。微かな違和感に、優がはっと目を開けた。動いた。ひかるの指先が、確かに震えた。一瞬、見間違いかと思った。だが、もう一度。小さく、指が動く。「……ひかる?」優は椅子から身を乗り出した。胸の奥が激しく脈打つ。頼む。今度こそ。目を開けてくれ。次の瞬間。長い睫毛が、わずかに揺れた。ゆっくりと。本当にゆっくりと。瞼が開く。焦点の合わない瞳が天井を見つめ、やがて彷徨い、優を捉えた。数秒。時間が止まる。優は息をすることすら忘れていた。生きている。ひかるが、自分を見ている。それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが一気に崩れそうになる。「……優……さん……?」掠れた声。たったそれだけの言葉だった。けれど。その声を聞いた瞬間、胸の奥が激しく揺れる。何度も夢に見た。もう一度、この声を聞きたいと願った。それなのに。実際に聞いた瞬間、嬉しさより先に怖さが込み上げてくる。また何かあったら。また、この目が閉じてしまったら。そんな恐怖を隠すように、優は静かに言った。「まだ無理するな」だが。ひかるの瞳に、突然恐怖が走った。視線が横へ滑る。窓際。そこに置かれていたのは、新しい花束。看護師が朝に替えたものだろう。白いガーベラ。その白さを見た瞬間。ひかるの表情が変わった。何かを思い出したように。いや。思い出したくないものを、無理やり見せられたように。「や……」喉が引き攣る。「やだ……」体が震え始める。「ひかる?」優が手を握る。だが、ひかるは怯えた子供のように、その手に縋りついた。肩が小刻みに震えている。「白……」かすれた声。「白が……来る……」その言葉に、優の背筋に冷たいものが走る。白。昨夜、沙羅
夜の病室は、不自然なほど静かだった。規則正しく上下する胸の動きが、久遠ひかるの命がまだここにあることを証明している。それを確認するたびに、藤崎優は胸の奥で息をついていた。生きている。それだけでいい。今は、それだけでいい。窓の外では、細い雨が降っていた。街灯に照らされた雨粒が、ゆっくりと線を引いて落ちていく。優は、ベッドの横に立っていた。眠るひかるは、驚くほど小さく見える。女優としてスクリーンに映る彼女は、あんなにも強く、大きな存在なのに――。今は、触れれば壊れてしまいそうだった。包帯の巻かれた額。点滴の管。かすかに上下する胸。事故の映像が、何度も脳裏をよぎる。白い車。雨。衝撃。そして、流血。もし、あのとき間に合っていなかったら。もし、ほんの少しでも搬送が遅れていたら。考えるだけで、喉が詰まる。社長としてなら、どんな危機にも冷静に対応できる。相手の出方を読み、先回りし、必要なら切り捨てる判断だってできる。だが。ひかるのことになると、その冷静さが簡単に崩れてしまう。失いたくない。ただ、その一つだけが頭の中を支配する。優は椅子に腰を下ろし、そっとひかるの指先に触れた。冷たい。思わず力を込める。「……スクリーンに、必ず戻ってこい」声に出した瞬間、自分でも驚くほど掠れていた。戻ってこい。女優として。そして――自分のいる、この世界へ。そんな願いを口にすることすら、今の自分には怖かった。ひかるが目を覚ますこと。笑うこと。また演技をすること。そのすべてが、当たり前ではない。だからこそ、祈るような気持ちでひかるを見ているしかなかった。そのときだった。コン、と小さな音がした。病室のドアが、静かに開く。優は振り返る。瞬間。胸の奥に、嫌な予感が走った。入ってきたのは、一人の女。長い黒髪。淡いグレーのコート。手には、白い百合の花束。雪城沙羅だった。一瞬、空気が変わる。温度が、数度下がったような感覚。どうしてここにいる?どうやって入った?面会は拒否している。警備も強化したはずだ。それなのに。沙羅は、何事もなかったかのように立っている。その余裕が、何よりも不気味だった。「……何度言えばわかる。面会拒否だ。しかも、面会時間は過ぎているはずだ」優の声は低い。怒鳴る必要な
雪城沙羅は、昔から負けることを知らない女だった。いや。正確には、負けないためなら、何でもしてきた女だった。デビュー当時。現場には、自分より遥かに格上の大女優たちが並んでいた。主演。看板。視聴率を持つ女たち。スタッフが彼女たちに向ける笑顔。共演者たちが交わす会話。現場に入った瞬間から、誰が中心なのかが分かる。その中で沙羅に与えられるのは、端役ばかりだった。台詞は数行。名前すら覚えられない役。撮影が終われば、誰の記憶にも残らない。悔しかった。唇を噛みしめた夜も、一度や二度ではない。自分だって、ここにいる。自分だって、もっとできる。そう叫びたかった。けれど、沙羅は泣かなかった。泣けば、負けたことになる。弱いと思われたら、そこで終わる。だから、代わりに観察した。誰が不安を抱えているのか、誰が年齢に怯えているのか、誰が椅子を奪われることを恐れているのか、誰が、自分より若い女優を怖がっているのか、沙羅は、誰よりも静かに人を見ていた。そして、静かに追い詰めた。直接ではない。噂。比較記事。週刊誌への小さな火種。ほんの少し、誰かの耳元に言葉を落とす。それだけで、人は勝手に疑い始める。自分は嫌われているのではないか、自分はもう必要とされていないのではないか、次に選ばれるのは、あの子ではないか。精神は、刃物よりも簡単に人を壊す。沙羅は、それを知っていた。だから、手を汚しているという感覚すらなかった。自分が直接何かをしたわけではない。そう思えば、眠ることもできた。やがて……。一人が引退した。また一人が休養に入った。そして気づけば。スポットライトは、沙羅だけを照らしていた。誰もが彼女を見る。誰もが彼女の名前を口にする。いつしか。……雪城沙羅の時代。そう呼ばれるようになった。その言葉を聞いたとき、沙羅は鏡の中の自分を見つめながら思った。やっと―――やっと、ここまで来た。誰にも奪わせない。この場所だけは。そう誓った。相手役の俳優たちも、いつしか同世代に変わっていた。その中に、藤崎優がいた。初めて共演したとき、沙羅は確信した。……この男は、自分と並ぶために生まれてきた。男らしくて、美しい。そして、野心がある。だが、どこか冷静。周囲に流されない。媚びない。そ
病院の廊下は、夜になるほど静まり返る。昼間なら聞こえていた看護師たちの足音も、患者や見舞客の話し声も、今はほとんどない。白い照明だけが、長い廊下を淡々と照らしている。静かすぎる。まるで、この場所だけ時間から切り離されてしまったようだった。だが――。藤崎優の胸の奥だけは、嵐のように騒いでいた。事故以来、何度も自分に言い聞かせてきた。偶然かもしれない。まだ何も分かっていない。証拠がない以上、誰かを疑うことはできない。そう思おうとしていた。だが、そのたびに脳裏に浮かぶ。事故現場。ほとんど残っていなかったブレーキ痕。姿を消した運転手。そして、あまりにも早く病院へ現れた雪城沙羅。何かがおかしい。そう感じながらも、確証がなかった。だからこそ、優は苛立っていた。ひかるが眠っている病室の前で、何もできない自分自身に。そのときだった。警備責任者の高城(たかぎ)が、低い声で言う。「社長……例の映像が届きました」優は顔を上げた。胸の奥で、何かが小さくざわめいた。「……映像?」高城は黙って頷き、タブレットを差し出した。優も無言で受け取る。指先に、わずかな力が入った。これで何かが分かるのか。それとも――。また何も掴めないままなのか。そんな不安を押し殺すように、再生ボタンを押した。画面に映ったのは、事故現場近くのコインパーキング。時間は……事故の前日、午後八時三十四分。街灯に照らされたアスファルト。数台の車。そして。白いセダン。優の呼吸が、止まる。画面を見つめたまま、瞬きすらできなかった。「……これだ」あの事故の日。ひかるを襲った車。画面の中に映る白いセダンを見た瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちていく。偶然であってほしい。そう願う自分と、もう偶然ではないと理解している自分。その二つが、激しくぶつかっていた。高城が映像を拡大する。車の少し後方。そこに、一人の女が立っていた。帽子を深くかぶり、サングラスをかけて傘を差している。顔は、はっきりとは見えない。それでも。でも、分かる。分かってしまう。立ち姿。肩のライン。首の角度。身体に染みついた、あの独特の存在感。優は、その姿を知りすぎていた。何年離れていても。何年会っていなくても。忘れられるはずがない。優の喉が、ひくりと震
朝の光が、静かに病室へ差し込んでいた。昨夜の雨が嘘のように空は晴れている。だが、久遠ひかるの胸の奥に残る不安は、少しも晴れていなかった。目が覚めてから、最初に確認したのは扉だった。警護員が立っている。それだけで、わずかに呼吸が楽になる。けれど同時に思い知らされる。自分は今、「守られなければならない状況」にいるのだと。視線を横に動かす。優がいる。窓際に立ち、電話で短く指示を出していた。低い声。無駄のない言葉。仕事の顔。その背中を見ていると、不思議と恐怖が遠のく。この人が側にいる。それだけで世界が保たれている気がした。電話を切った優が振り返る。視線が合う。ほんのわずかに表情が緩む。「気分はどうだ」「……少しだけ」声はまだ弱い。それでも、昨日より確実に生気が戻っている。優は椅子を引き寄せ、ベッドの横に座った。距離が近い。ひかるは小さく息を飲む。五年前なら、この距離は当たり前だったのに。今は違う。触れたら壊れそうな均衡の上にいる。そのときだった。コンコン、と控えめなノック。警護員が扉を開けると、入ってきたのは看護師だった。「おはようございます。お届け物です」腕に抱えていたのは、花。真っ白な花束だった。ひかるの呼吸が止まる。看護師は微笑みながら言う。「差出人のお名前が無いんです。でも、とても綺麗なので……」優の視線が鋭くなる。「誰が受け取った」「一階の受付に届いていました」優は花束を受け取った。ずしりと重い。白だけで統一されている。百合。カラー。胡蝶蘭。嫌な静けさをまとった花だった。ひかるの指先が震え始める。「……やめて」かすれた声。優はすぐ気づく。恐れている。花を。優は花束を少し離した。そのとき、小さなカードが落ちた。拾い上げる。開く。優の瞳が、ゆっくり細くなる。「優さん……?」数秒の沈黙。そして優はカードを裏返した。ひかるから見えないように。だが遅かった。黒いインクで書かれた文字が、一瞬見えてしまった。安らかな眠りを。ひかるの顔から血の気が引く。「いや……」呼吸が乱れる。モニターの音が速くなる。優は即座にナースコールを押した。「落ち着け。もう見なくていい」花束を警護員へ渡す。「処分しろ。すぐにだ!!」警護員の表情も強張っ
病室は、静かだった。規則的に鳴る心電図の音だけが、時間を刻んでいる。白いカーテンが、わずかに揺れる。外は曇天。昼だというのに、光は弱かった。久遠ひかるは、まだ眠っている。顔色は戻りつつあるが、事故の爪痕は消えていない。額に巻かれた包帯が、現実を突きつけてくる。優は、ベッドの脇に立っていた。椅子には座らない。いつ目を覚ましてもいいように、そんな無意識の緊張が、彼を立たせたままにしている。視線を落とす。細い指。点滴の管。この手が、もう動かなくなる可能性があった。その事実を思い出すだけで、胸の奥が鈍く痛む。そのときだった。指先が、わずかに動いた。優の呼吸が止まる。まぶたが震える。そして―――ゆっくりと、開いた。「……ひかる」声が低くなる。自然と。焦らせないように。だが。ひかるの瞳は、何かに怯えるように揺れていた。焦点が定まらない。呼吸が浅い。突然、彼女の指が優の袖を掴んだ。力は弱い。だが、必死だった。唇が震える。声にならない空気が漏れる。優は身を屈めた。「大丈夫だ。ここは病院だ」ひかるの瞳が、ゆっくり優を捉える。その瞬間、涙が滲んだ。だが次の言葉は、優の予想を完全に裏切った。かすれた声。壊れそうなほど小さい。「……ゆきしろ……さら……」空気が、凍った。優の思考が止まる。「……雪城?」ひかるの肩が跳ねた。まるで、その名前自体が恐怖であるかのように。指の力が強くなる。「いたの……」「何が?」ひかるは息を吸うたびに、体を小さく震わせる。「わたし……目が覚めたとき……」言葉が途切れる。喉がうまく動かない。優は、ナースコールに伸ばしかけていた手を止めた。今、聞かなければならない。本能が告げている。ひかるの瞳が揺れる。記憶を辿るように。そして。「……まだ生きてたのね、って……」優の背筋に、冷たいものが走った。病室の温度が、数度下がったように感じる。「間違いないのか」声が低くなる。ひかるは、ゆっくり頷いた。「耳元で……笑ってた……」そこで限界だった。涙がこぼれる。呼吸が乱れる。優はすぐにナースコールを押した。医師が駆け込んでくる。「刺激を与えすぎないでください。まだ安静が必要です」優は何も言わず、一歩下がった。だが。瞳の奥では、何かが完全に変わ
黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男
次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけた
――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。







